<昭和55年1月撮影 中央橋から南運河を見たもの>
このところ、寒気と暖気が交互にやってきて、このまま春になればと思っていると、翌日からは猛烈な吹雪と寒さに見舞われる始末。一晩に50~60cmも積もって、車庫から車が出せないことも。いくら湿気の少ない雪とはいえ、除雪は、高齢者にとっては大きな負担。
さて愚痴はそのくらいにして、この時期、写真撮りには、なかなか出歩けません。寒いし、滑るし…。おまけに25~26日の猛烈寒波で、日中でも最高気温が-14°C、水道が二日間にわたって凍結。
そこで、手持写真の中から数回に分けて、「小樽運河」を紹介したいと思います。
なお、小樽運河は大正12年に完成したが、日本国内唯一の海岸の沖合を埋め立てて造られた。なので緩やかに湾曲しているのが特徴。明治、大正の頃は、港湾設備が完備しておらず、沖合に停泊した船から、艀に荷を下ろし、それをタグボートで引いて海岸沿いの倉庫に運ぶのが普通。
昭和も40年代になると港湾設備が完備し、運河不要論が沸き起った。紆余曲折があって、南運河は幅20mに縮小、北運河は従来通り40mとして残り、現在の姿に。詳しくは、ウィキぺデイア、または小樽市のHPを参照のこと。
☆今回は、昭和40代終わりから50年代に撮影した写真から、その一部を取り上げます。この時期、東京の本店(政府系金融機関)に勤務していたので、そうそう帰省もできなくて…
昭和49年1月撮影
上段の画像は、中央橋から、浅草橋方向(札幌方向、当時はまだ浅草橋ができていない)を撮ったもの。幾分セピア色がかっていますが…。フィルムも現像技術も現在とは違うので…ご了解のほどを。なおカメラは、学生時代に購入した「オリンパスPEN F」というハーフサイズでした。
下段は、同じ地点から北運河方向を写したもの。艀が多く、運河沿いには倉庫群がびっしり。
なお、画像が上下2枚になっていますが、キャノスキャナー5700(平成15年頃購入)にハーフサイズ用の取り込みアダプターがなく、1度に二カット撮り込んだため。
昭和51年7月撮影(中央橋から南運河・札幌方向)
南運河にはまだ艀とタグボートが数多く係留されておます。
この時点でも、運河は放置されたままで、奥の突き当り(現在の浅草橋エリア)はヘドロのたまり場で、メタンガスがぷくぷく沸いておりました。
さてもう一枚同じ場所から撮影したのが下の画像。
昭和55年1月撮影
中央奥に沈みかけた廃船があります。51年当時に比べて、一段と沈みました。この画像の廃船部分を大きく切り取ってみたのが下の画像です。
一段上の画像を拡大したものです。よく見ると、妙見川の汚水がこの運河に流れ込み、ヘドロに追い打ちをかけたようです。
運河沿いの建物も、殆どが倉庫で、現在の、飲食店が立ち並ぶ様子とはかなり違います。
余談ですが、石原慎太郎・裕次郎兄弟の父石原潔が、小樽支店長として勤務していた山下汽船の小樽支店が、奥の四角い建物かな?
昭和55年1月撮影
運河論争華やかな頃、全面埋め立てられる可能性もあるという話を聞き、帰省時に、盛んに撮りに行った記憶があります。カラーとモノクロで、数本フィルムを使った記憶があります。そのうちの1枚です。
なお、昭和49年、51年の画像と比較すると、用済みとなった艀やタグボートの数が減っていることが読み取れます。
さて次回は?勤務先の数年ごとの転勤の都合で、昭和60年代、平成10年頃までは、小樽運河の写真は、ほとんど撮っておりません。横浜、青森、釧路などその地で有名な撮影対象があって、そちらに興味が移ったせいかも??