かつてはエネルギーの主役であった石炭、この石炭の産出量の殆どを九州と北海道の炭鉱で占めていました。しかしその後のエネルギー革命と安価な外国産の輸入で、石炭産業は衰退の一途を辿り、今は釧路のコールマインと露天掘りの道内数社を除いて、すべて姿を消してしまいました。
道内でもとりわけ炭鉱が集中した空知(ソラチ)管内の、夕張、芦別、赤平、三笠、歌志内などの旧炭鉱を抱えていた都市は未だに人口減少に悩まされています。一部には旧炭鉱を炭鉱遺産として存続を図り観光資源として活用を図る計画もあります。そこで今回は旧炭鉱跡を取り上げてみたいと思います。
(1) 白糠本岐炭鉱跡
古くは明治の頃から掘られ、昭和44年に閉山となりました。ピーク時には4-500人の人員がいたようです。国道44号線を十勝から釧路方面に進み、白糠本町を過ぎ、JR西庶路駅近くの道道242号線を10分ほど北上すると、右手にズリ山や、高い煙突が見えてきます。建物までは舗装道路が続いています。
(ホッパー=貯炭所でしょうか、壁や天井が抜け、木が生えて来ています。)
(こうしたホッパーが数箇所点在しています。炭住跡はもっと奥にあるらしいですが、行きませんでした。)
(2) 浦幌炭鉱跡
街中から道道56号線を足寄方面へ30分ほど進むと、炭山方面への標識があります。そこからさらに15分ほど進むと、常室川ダムに出ます。周辺の枯れた立ち木についてはすでにこのブログでも取り上げました。その美しい枯れ木を後に、さらに10分ほど進むと、林と同化した旧炭住跡地が見えてきます。
(外壁は剥がれ落ち、木々が覆っています。)
(室内は荒れ放題。)
(浦幌炭鉱の歴史を記した看板 在りし日の炭住街 昭和29年に閉山した。)
(3) 三笠の炭鉱
かつて三笠市には幾つもの炭鉱が集中していました。下の案内図からも分かるように、道道116号線(三笠〜富良野線)沿いに、奔別炭鉱(図中現在地上方)が、その下に幾春別炭鉱が、さらに幌内炭鉱が見えます。なお、石炭積み出しのために、日本で三番目に施設されたのが幌内鉄道(小樽手宮〜札幌〜三笠幌内間)です(詳しくは2009.9.14付け等ブログ「幌内鉄道遺構めぐり…」参照)。
(旧奔別炭鉱正門前、正面は立構の櫓。ここから先はロープが張られ立ち入り禁止となっています。正門前を左に行くと次の建物が見えます。)
(ホッパーでしょうか、新聞によれば、取り壊される予定でしたが、炭鉱遺産としての存続が決まったとありました。)
(道道116号線沿いにある炭住、1棟5戸で中二階つき、現在も一部に居住者がおります。黄色いガスボンベが目立ちます。)
(4) 夕張の炭鉱
夕張は明治初期から炭鉱の町として栄え、優良な石炭地として数多くの炭鉱がありました。昭和30年代には人口117千人を抱える大都市でした。またガス爆発事故などの多発する炭鉱でもありました。閉山と共に人口が急減し、現在では10分の1以下の106百人に減少し、なお減少に歯止めがかかっていません。
(本物の炭住ではありません。「幸せの黄色いハンカチ」で使われたセットです。)
(南大夕張鉄道の機関車です。)
(5) JR岩見沢駅
炭鉱遺産ではありませんが、かつて石炭を運び出す鉄路の要衝に当たり、岩見沢から各炭鉱に支線が延びていました。今はそのすべてが廃線となりました。廃線となったレールを使い駅舎が建て直されています。
(駅舎の窓ガラス枠はかつてのレール、その一本一本に由来が記してある。)
(明治の頃、輸入されていたレールも窓枠に生まれ変わった)
(6) その他
下の画像は昭和33年の小樽築港付近です。撮影時の記憶は殆どありませんが、中学生の頃オヤジのパール3型機を持ち出し、小樽の親戚に遊びに来ていた時に写したものです。その後、小樽の大学を出て、札幌の会社(政府系金融機関)に通勤しましたが、当時はSL列車で、毎日小樽築港の石炭の積み下ろしを眺めて通勤したものです。
(岸壁には幾つものトランスポーターがあり、石炭の積み出しをしていました。)
道内でもとりわけ炭鉱が集中した空知(ソラチ)管内の、夕張、芦別、赤平、三笠、歌志内などの旧炭鉱を抱えていた都市は未だに人口減少に悩まされています。一部には旧炭鉱を炭鉱遺産として存続を図り観光資源として活用を図る計画もあります。そこで今回は旧炭鉱跡を取り上げてみたいと思います。
(1) 白糠本岐炭鉱跡
古くは明治の頃から掘られ、昭和44年に閉山となりました。ピーク時には4-500人の人員がいたようです。国道44号線を十勝から釧路方面に進み、白糠本町を過ぎ、JR西庶路駅近くの道道242号線を10分ほど北上すると、右手にズリ山や、高い煙突が見えてきます。建物までは舗装道路が続いています。
(ホッパー=貯炭所でしょうか、壁や天井が抜け、木が生えて来ています。)
(こうしたホッパーが数箇所点在しています。炭住跡はもっと奥にあるらしいですが、行きませんでした。)
(2) 浦幌炭鉱跡
街中から道道56号線を足寄方面へ30分ほど進むと、炭山方面への標識があります。そこからさらに15分ほど進むと、常室川ダムに出ます。周辺の枯れた立ち木についてはすでにこのブログでも取り上げました。その美しい枯れ木を後に、さらに10分ほど進むと、林と同化した旧炭住跡地が見えてきます。
(外壁は剥がれ落ち、木々が覆っています。)
(室内は荒れ放題。)
(浦幌炭鉱の歴史を記した看板 在りし日の炭住街 昭和29年に閉山した。)
(3) 三笠の炭鉱
かつて三笠市には幾つもの炭鉱が集中していました。下の案内図からも分かるように、道道116号線(三笠〜富良野線)沿いに、奔別炭鉱(図中現在地上方)が、その下に幾春別炭鉱が、さらに幌内炭鉱が見えます。なお、石炭積み出しのために、日本で三番目に施設されたのが幌内鉄道(小樽手宮〜札幌〜三笠幌内間)です(詳しくは2009.9.14付け等ブログ「幌内鉄道遺構めぐり…」参照)。
(旧奔別炭鉱正門前、正面は立構の櫓。ここから先はロープが張られ立ち入り禁止となっています。正門前を左に行くと次の建物が見えます。)
(ホッパーでしょうか、新聞によれば、取り壊される予定でしたが、炭鉱遺産としての存続が決まったとありました。)
(道道116号線沿いにある炭住、1棟5戸で中二階つき、現在も一部に居住者がおります。黄色いガスボンベが目立ちます。)
(4) 夕張の炭鉱
夕張は明治初期から炭鉱の町として栄え、優良な石炭地として数多くの炭鉱がありました。昭和30年代には人口117千人を抱える大都市でした。またガス爆発事故などの多発する炭鉱でもありました。閉山と共に人口が急減し、現在では10分の1以下の106百人に減少し、なお減少に歯止めがかかっていません。
(本物の炭住ではありません。「幸せの黄色いハンカチ」で使われたセットです。)
(南大夕張鉄道の機関車です。)
(5) JR岩見沢駅
炭鉱遺産ではありませんが、かつて石炭を運び出す鉄路の要衝に当たり、岩見沢から各炭鉱に支線が延びていました。今はそのすべてが廃線となりました。廃線となったレールを使い駅舎が建て直されています。
(駅舎の窓ガラス枠はかつてのレール、その一本一本に由来が記してある。)
(明治の頃、輸入されていたレールも窓枠に生まれ変わった)
(6) その他
下の画像は昭和33年の小樽築港付近です。撮影時の記憶は殆どありませんが、中学生の頃オヤジのパール3型機を持ち出し、小樽の親戚に遊びに来ていた時に写したものです。その後、小樽の大学を出て、札幌の会社(政府系金融機関)に通勤しましたが、当時はSL列車で、毎日小樽築港の石炭の積み下ろしを眺めて通勤したものです。
(岸壁には幾つものトランスポーターがあり、石炭の積み出しをしていました。)