過日堺町通りの観光街を歩いていて、小樽出世前広場にある「小樽歴史館」にふらりと立ち寄って見ました。いつもは素通りするのですが、この日は観光客が多くいて、この出世前広場右側の飲食店に入って行くお客も結構います。地元にいながらこの周辺にどのようなお店があるのか、詳しくは知りません。入れ替わりも激しいエリアと言うこともあって…
広場左手の小樽歴史館には何度かはいったことがありますが、昔のものがよく並べられているな~程度の認識でしたが、じっくり時間をかけて見ていると、興味の惹く展示物が色々あります。小樽博物館・運河館の民間版、俗っぽい感じがします。そこで今回は昭和レトロと題して、これらの展示物の一部及び私の古きアルバムから、懐かしい昭和30年代を振り返ってみたいと思います。
<小樽歴史館から>
この歴史館には小樽の古き時代の写真や当時使われていた家庭用器具等が展示されています。また小樽にゆかりの深い人物等の写真やエピソードがポスターとして貼られています。入ってまず目に付くのは、このカラフルな若き女性たちの顔写真…
週刊明星も週刊平凡も、昭和33年、34年に相次いで創刊され、大衆芸能誌として100万部前後の発刊数を誇った。両誌ともカラフルな表紙と若き女優たちのグラビア写真が大人気であった。
昭和のにおいがプンプンする。丸いちゃぶ台、足踏みミシン、鏡台、湯たんぽに富山の置き薬、道民にはなじみの「フルヤのウィンターキャラメル」
☆フルヤのキャラメルは、札幌が本社の古屋製菓が大正14年に発売、一時本州にも進出したが、明治、森永、グリコなど大手に太刀打ちできず敗退。昭和56年に倒産。また小樽が本社の池田製菓から昭和26年に発売された「バンビキャラメル」も人気があった。
ストーブは道民にとっては必需品であった。燃料の石炭を冬期間保管するための石炭小屋が建物には併設されていました。
広場奥の建物には、昔の写真がいっぱい展示されています。小樽にゆかりのある女優さんたちのスナップ写真です。名前は…忘れました。多分ロケに来た時のカットだと思います。
このポンプは田舎に行くと今でもみられるかも…昔は水脈まで穴を掘ってポンプを設置したものです。
コーナーの一角には小樽にゆかりのある人物についての説明がありました。その中から「赤い靴」の少女についてアップしました。
☆赤い靴の少女の銅像は全国に7-8カ所ありますが、中でも横浜の山下公園にある「赤い靴はいてた女の子の像」が有名です。平成19年には小樽市の北運河にある運河公園にも親子の像が建てられました。
大正11年に、野口雨情作詞、本居長世作曲で童謡が作られましたが、父親の鈴木士郎が、小樽日報社で野口雨情と同僚であったことから、この歌が生まれたという。社会主義運動や開拓の厳しい時代子供を手放さざるを得なかった苦悩がうかがえる。なお、3歳だった岩崎かよ(母は鈴木と再婚)は、すでに肺結核に侵され、渡米前に東京の孤児院に預けられ、そこで9歳で亡くなった。(赤い靴…Wikipedia)
<昭和30年代 冬はとてつもなく厳しかったが、のどかな時代だった>
戦時中疎開した雨竜で生まれた私は、隣町の滝川高校を卒業するまで雨竜町で育ちました。昭和30年代前後からこの田舎町(当時は村、S36年に町に移行))にもカメラブームが押し寄せ、同級生とあのカメラがいい、このカメラが欲しいと、カタログを取り寄せては話し合ったものです。所詮お金のない子供にはカメラは高根の花。そんな時にオヤジが、それならばと買ってくれたのが「コニレット」と言うカメラ。次いでオヤジ自身も大枚はたいて「パールⅢ型」を購入。
コニレットは、フイルムが30㎜×36㎜裏紙付と言う、特殊なフィルムのために使いにくい。田舎では、35mm版(24㎜×36㎜)のフィルムは簡単に手に入るものの、イレギュラーなコニレット用のフィルムは、手に入りずらかったこともあって、もっぱら親父のパールを持ち出して、学校へ持って行ったものです。
中3の時のセルフポートレート。足元はケラれていますが別カットを見ると、サンダル履きでした。今のようなプラしチック製ではなく木製のサンダルです。そういえば下駄ばきで自転車通学してましたね。
セミ判(4.5cm×6㎝)のスリーブフィルムをスキャンすると、時々6㎝×9㎝のフィルムと勘違いして、アウトプットしてきます。下段の画像は昼食の時間で、教室で弁当を食べています。空席があるのは、食べ終わると一目散に体育館に行くからです。
この画像の撮影の経緯は忘れましたが、当時は全員弁当持参です。給食は、小、中、高校と一度も経験したことがありませんでした。
弁当箱に注目してください。深さ5㎝ほどのアルマイト製(アルミニュームを被覆加工したもの)で、さすが農家の子供が多く、真っ白いご飯がびっしり詰まってます。真ん中に梅干しを入れた「日の丸弁当」が普通でした。梅干し弁当を長年使うと、弁当箱の隅々はよく腐食したものでした。なお当時は白いコメを食べられるのは、裕福な家庭と農家の子供たちでした。裕福でない家庭は麦入りご飯が普通で、それが恥ずかしくて、手で隠して弁当を食べた記憶があります。
我が家の何かのお祝いの日の夕食だったと思います。役場の官舎ですが、古い建物で、冬は隙間から雪が吹き込むので、新聞紙を短冊形に切って、目張りをしたものです。30年代も後半にはビニールシートなるものが出現して、窓一面にビニールで覆った事を記憶しています。
雨竜は豪雪地帯です。雪掻きや雪おろしは子供の仕事でした。光線引きで見ずらいですが、玄関横に石炭小屋があります。冬期間使う石炭を貯蔵するためです。その小屋に雪掻き用のジョンバ(いまはプラスシックの雪かき)が立てかけられています。梯子は屋根の雪下ろしをするために使います。
前の画像の建物とこの建物は繋がっていて、2戸建てです。左右同じ間取りです。こちらが我が家です。
右が私で、左が同級生のT君。T君のうちは豆腐屋さんでもあり、その一角で兄姉が理髪店もしておりました。カメラが欲しくて、二人で夏場に豆腐売りのバイトをしたこともあります。ところが砂利道、豆腐が割れて、売り物になりませんでした。
オリエンタル主催のモデル撮影会に、T君と二人して参加しましたが、見事二人とも選外。当たり前ですね、モデル撮影なんぞ初めてだし、カメラ歴も1-2年、それほど甘くはありません。場所は雨竜神社の境内です。過日中学校の同期会を沼田町で行った際に、立ち寄ってみましたが、バックに見える記念碑はありませんでした。
以前にも一度アップしましたが、同級生たち。
中学校3年の卒業当日(あるいは数日前かも)撮影、卒業以来一度もあっていない方も数人います。
さて、高校は雨竜から滝川に通っていたことは記しましたが、いざスキャナーで取り込もうとネガを探したのですが…数本しか出てきませんでした。捨てたわけではありませんので、撮る機会が減ったということかと思います。学校祭のネガが数本と卒業式当日のネガが数本のみでした。結構受験勉強に多忙だったことが原因かもしれません。
3年生の学校祭の時に撮ったもの、男子生徒に大もてだったNさん、卒業後数年で病死されたと聞いたときは大ショックでした。
昭和37年に滝川高校を卒業して、4月から小樽商大に進みました。大学に入ってからは気分的にも時間的にも余裕が出たせいか、再び写真撮影に取り組むようになました。昭和レトロ・その2では、学生時代とその後について取り上げるつもりでいます。
広場左手の小樽歴史館には何度かはいったことがありますが、昔のものがよく並べられているな~程度の認識でしたが、じっくり時間をかけて見ていると、興味の惹く展示物が色々あります。小樽博物館・運河館の民間版、俗っぽい感じがします。そこで今回は昭和レトロと題して、これらの展示物の一部及び私の古きアルバムから、懐かしい昭和30年代を振り返ってみたいと思います。
<小樽歴史館から>
この歴史館には小樽の古き時代の写真や当時使われていた家庭用器具等が展示されています。また小樽にゆかりの深い人物等の写真やエピソードがポスターとして貼られています。入ってまず目に付くのは、このカラフルな若き女性たちの顔写真…
週刊明星も週刊平凡も、昭和33年、34年に相次いで創刊され、大衆芸能誌として100万部前後の発刊数を誇った。両誌ともカラフルな表紙と若き女優たちのグラビア写真が大人気であった。
昭和のにおいがプンプンする。丸いちゃぶ台、足踏みミシン、鏡台、湯たんぽに富山の置き薬、道民にはなじみの「フルヤのウィンターキャラメル」
☆フルヤのキャラメルは、札幌が本社の古屋製菓が大正14年に発売、一時本州にも進出したが、明治、森永、グリコなど大手に太刀打ちできず敗退。昭和56年に倒産。また小樽が本社の池田製菓から昭和26年に発売された「バンビキャラメル」も人気があった。
ストーブは道民にとっては必需品であった。燃料の石炭を冬期間保管するための石炭小屋が建物には併設されていました。
広場奥の建物には、昔の写真がいっぱい展示されています。小樽にゆかりのある女優さんたちのスナップ写真です。名前は…忘れました。多分ロケに来た時のカットだと思います。
このポンプは田舎に行くと今でもみられるかも…昔は水脈まで穴を掘ってポンプを設置したものです。
コーナーの一角には小樽にゆかりのある人物についての説明がありました。その中から「赤い靴」の少女についてアップしました。
☆赤い靴の少女の銅像は全国に7-8カ所ありますが、中でも横浜の山下公園にある「赤い靴はいてた女の子の像」が有名です。平成19年には小樽市の北運河にある運河公園にも親子の像が建てられました。
大正11年に、野口雨情作詞、本居長世作曲で童謡が作られましたが、父親の鈴木士郎が、小樽日報社で野口雨情と同僚であったことから、この歌が生まれたという。社会主義運動や開拓の厳しい時代子供を手放さざるを得なかった苦悩がうかがえる。なお、3歳だった岩崎かよ(母は鈴木と再婚)は、すでに肺結核に侵され、渡米前に東京の孤児院に預けられ、そこで9歳で亡くなった。(赤い靴…Wikipedia)
<昭和30年代 冬はとてつもなく厳しかったが、のどかな時代だった>
戦時中疎開した雨竜で生まれた私は、隣町の滝川高校を卒業するまで雨竜町で育ちました。昭和30年代前後からこの田舎町(当時は村、S36年に町に移行))にもカメラブームが押し寄せ、同級生とあのカメラがいい、このカメラが欲しいと、カタログを取り寄せては話し合ったものです。所詮お金のない子供にはカメラは高根の花。そんな時にオヤジが、それならばと買ってくれたのが「コニレット」と言うカメラ。次いでオヤジ自身も大枚はたいて「パールⅢ型」を購入。
コニレットは、フイルムが30㎜×36㎜裏紙付と言う、特殊なフィルムのために使いにくい。田舎では、35mm版(24㎜×36㎜)のフィルムは簡単に手に入るものの、イレギュラーなコニレット用のフィルムは、手に入りずらかったこともあって、もっぱら親父のパールを持ち出して、学校へ持って行ったものです。
中3の時のセルフポートレート。足元はケラれていますが別カットを見ると、サンダル履きでした。今のようなプラしチック製ではなく木製のサンダルです。そういえば下駄ばきで自転車通学してましたね。
セミ判(4.5cm×6㎝)のスリーブフィルムをスキャンすると、時々6㎝×9㎝のフィルムと勘違いして、アウトプットしてきます。下段の画像は昼食の時間で、教室で弁当を食べています。空席があるのは、食べ終わると一目散に体育館に行くからです。
この画像の撮影の経緯は忘れましたが、当時は全員弁当持参です。給食は、小、中、高校と一度も経験したことがありませんでした。
弁当箱に注目してください。深さ5㎝ほどのアルマイト製(アルミニュームを被覆加工したもの)で、さすが農家の子供が多く、真っ白いご飯がびっしり詰まってます。真ん中に梅干しを入れた「日の丸弁当」が普通でした。梅干し弁当を長年使うと、弁当箱の隅々はよく腐食したものでした。なお当時は白いコメを食べられるのは、裕福な家庭と農家の子供たちでした。裕福でない家庭は麦入りご飯が普通で、それが恥ずかしくて、手で隠して弁当を食べた記憶があります。
我が家の何かのお祝いの日の夕食だったと思います。役場の官舎ですが、古い建物で、冬は隙間から雪が吹き込むので、新聞紙を短冊形に切って、目張りをしたものです。30年代も後半にはビニールシートなるものが出現して、窓一面にビニールで覆った事を記憶しています。
雨竜は豪雪地帯です。雪掻きや雪おろしは子供の仕事でした。光線引きで見ずらいですが、玄関横に石炭小屋があります。冬期間使う石炭を貯蔵するためです。その小屋に雪掻き用のジョンバ(いまはプラスシックの雪かき)が立てかけられています。梯子は屋根の雪下ろしをするために使います。
前の画像の建物とこの建物は繋がっていて、2戸建てです。左右同じ間取りです。こちらが我が家です。
右が私で、左が同級生のT君。T君のうちは豆腐屋さんでもあり、その一角で兄姉が理髪店もしておりました。カメラが欲しくて、二人で夏場に豆腐売りのバイトをしたこともあります。ところが砂利道、豆腐が割れて、売り物になりませんでした。
オリエンタル主催のモデル撮影会に、T君と二人して参加しましたが、見事二人とも選外。当たり前ですね、モデル撮影なんぞ初めてだし、カメラ歴も1-2年、それほど甘くはありません。場所は雨竜神社の境内です。過日中学校の同期会を沼田町で行った際に、立ち寄ってみましたが、バックに見える記念碑はありませんでした。
以前にも一度アップしましたが、同級生たち。
中学校3年の卒業当日(あるいは数日前かも)撮影、卒業以来一度もあっていない方も数人います。
さて、高校は雨竜から滝川に通っていたことは記しましたが、いざスキャナーで取り込もうとネガを探したのですが…数本しか出てきませんでした。捨てたわけではありませんので、撮る機会が減ったということかと思います。学校祭のネガが数本と卒業式当日のネガが数本のみでした。結構受験勉強に多忙だったことが原因かもしれません。
3年生の学校祭の時に撮ったもの、男子生徒に大もてだったNさん、卒業後数年で病死されたと聞いたときは大ショックでした。
昭和37年に滝川高校を卒業して、4月から小樽商大に進みました。大学に入ってからは気分的にも時間的にも余裕が出たせいか、再び写真撮影に取り組むようになました。昭和レトロ・その2では、学生時代とその後について取り上げるつもりでいます。